第二章 二足の草鞋(わらじ)を履く
「1984年3月、親方のところとしては大きな規模の改修工事がありました。
そこは、ぼくが体験した、数あるアスベスト現場の中でも忘れられない現場となりました。
渋谷にあったその建物は、一階と二階は事務所で、その上は公共住宅となっている八階建ての中層ビルでした。
(中略)ふだんは軽量ボードの吊り天井の中に隠れている、コンクリートのほうとうの天井には、1970年代に建てられた建造物であれば当然のように、防火、防音のためにアスベストが吹付けられています。
振動ドリルの刃先がアスベストに当たったときの感触は、綿の繊維の柔らかさと発泡スチロールほどの硬さを併せ持っているといった手応えで、まずはドリルの打撃数を落としてブスッとアスベストアスベストに突き刺すようにしてから、やがて鉄骨やコンクリートの堅い手応えが伝わってきたらドリルをしっかり持ち直してだんだん打撃数を上げていくのです。
(中略)その狭い空間には、アスベストの細かい繊維のほかにも、断熱材のグラスウールやコンクリート粉、金属の切り屑、埃などが、もうもうと始終立ち籠めていました。
あるものは、かすかに洩れてくる光にキラキラと光りました。
タオルで口を覆っても、狭い空間の中では息苦しくて、とても長く覆い続けてはいられません。」
さすが小説家の書く文章です。生々しく現場の雰囲気が伝わって来るようです。
「そんな作業を三日ばかり続けただけだというのに、ぼくは、たちまち煙草がまるっきり喫えなくなりました。
両切りのピースを日に二箱、二十本は喫っていたのが、食後の一服を口にしただけで、左の胸の鎖骨の下あたりが重苦しくなり、激しく咳き込むようになってしまいました。
Tにもらって、軽い煙草に替えてみても同じでした。
それからは、さすがに煙草を控えたものの、咳はひどくなっていく一方で、やがて痰もからまってきました。」
「ここで言い添えておきたいのですが、アスベストを吸ってから発病するまで、短くても十年、ふつうは二十年以上もかかるといわれていますので、そんなに急に症状があらわれるわけがない、と反論される方もあると思います。
しかし、密閉された空間で、かなりの高濃度のアスベストを吸ってしまった経験からすると、吸った直後から、木造家屋の断熱材に使うグラスウールを吸ったときとはちがう感じがしました。
グラスウール(これを吸って喘息を起こすことことはありますが)の場合は、すぐに喉をガーッと鳴らして痰とともに唾を吐くようにすれば、喉に引っかかった違和感はある程度取れるのですが、アスベストの現場の場合は、そうしてもいっこうに取れる感じがしないのです。
グラスウールよりも細かい物がからまってもっと喉の奥深くへと入り込んでしまったような感触なのです。」
このような過酷な仕事をしながも、佐伯氏は小説を書き続け、1984年の秋『木を接ぐ』で「海燕」新人文学賞を受賞しました。