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大防法・石綿則の改正によりアスベストレベル3含有建材も規制強化!

『石の肺-僕のアスベスト履歴書』(佐伯一麦)を読む⑧

第八章 アスベスト禍の原点を訪ねて

2006年8月30日水曜日。

国を相手にしたアスベスト訴訟の第一回公判が、大阪地方裁判所で開かれた。 「石綿紡織業の発祥地であり、百年間にわたって石綿紡織業が集中立地していた大阪・泉南地域の石綿工場の元従業員や近隣住民ら8人(故人3人)が、全国に先駆けて、石綿被害に対する国の責任を問うために総額2億4,420万円の損害賠償請求訴訟を大阪地方裁判所に起こしたのです。」

泉南アスベスト訴訟のスタートでした。

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原告のトップバッター、南和子さんの意見陳述を転載します。

ちょっと長めですが…。

「父は去年2月2日に亡くなりました。

父は、石綿関連の職歴は一度もありませんでした。

戦後間もなく農業に従事するようになり、その後ずっと田畑の耕作を行ってきました。

父の耕作していた田畑の隣りには、三好石綿工業というアスベスト工場がありました。

このアスベスト工場は、比較的規模が大きく、敷地も建物も広くて、いくつかの建物が建っていました。

それらの工場の建物には窓が無数にあり、毎日、窓から粉じんを飛散させていました。(中略)

工場側の建物と畑の距離は1メートルくらいしかなく、その真下で農作業をしていた父は、粉じんをまともにかぶっていました。

父は、70歳を過ぎたある日、突然体調を崩し、血痰が多く出るという、思いがけない症状に見舞われました。

父を医師に診せたところ、医師からは『あなたはアスベスト工場で働いたことがあるのですか。肺にアスベストが突き刺さっている』と言われました。

それを聞いて、父も母もびっくりしました。

医師からは『アスベストを取り除くことはできません。一生このままです』と言われ、たいへんショックを受けて帰宅したのを憶えています。(中略)

父は、酸素を肺で吸収しそれを全身に送ることができない状態で、寝たきり状態になり、13年間ベッドの上での生活を強いられました。(中略)

このままでは、苦しみ抜いて死んでいった父の無念の思いは晴れません。

この裁判を通じて、国はアスベスト問題を放置してきた責任を認め、私の父が受けた苦しみと、父のみならず家族の受けた生活上の負担や精神的苦痛も償ってほしいと思います」

平成26年(2014年)10月9日、最高裁は、昭和33年5月26日から昭和46年4月28日までの間、国が規制権限を行使してアスベスト石綿)工場に局所排気装置の設置を義務付けなかったことが、国家賠償法の適用上、違法であると判断し、国の責任を認めました。

この判断を受けて、国は、アスベスト石綿)工場の元労働者やその遺族の方々が、国に対して訴訟を提起し、一定の要件を満たすことが確認された場合には、国は、訴訟の中で和解手続きを進め、損害賠償金を支払うと表明しました。

この訴訟の過程は映画『ニッポン国VS泉南石綿村』に詳しいです。

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尚、建設現場での補償に関して、令和3年6月9日に、議員立法により「特定石綿被害建設業務労働者等に対する給付金等の支給に関する法律」が成立し、令和4年1月19日に完全施行されました。

法の趣旨において、石綿にさらされる建設業務に従事した労働者等が、石綿を吸入することにより発生する疾病にかかり、精神上の苦痛を受けたことについて、最高裁判決等において国の責任が認められたことに鑑み、被害者の方々へ損害の迅速な賠償を図る旨が述べられています。